そこに目をつけたのがマリオン・シュグ・ナイトだった。身長190センチ、体重150キロのこの男はさまざまな顔を持つ人物だった。元ギャングの取り巻き、元NFLのロサンジェルス・ラムズのリザーヴ選手、そして、この時点では驚異のヒット街道を飛ばすデス・ロウ・レコードの社長であった。シュグは、確かに才能を見出す眼力に恵まれていたし、一度見込んだらその食いつきのしぶとさも人並み外れていた。たとえば、イージーEのルースレス・レコードが起こした係争によれば、ルースレスと既に契約で縛られていたドクター・ドレイを獲得するのにシュグが使った手口はこういうものだった。手下にイージーに会いにいかせ、ペンを渡し、移籍承諾書に署名するまで鉄パイプを掲げて待ち構える、というのである。
 あるレコーディング・スタジオでトゥパックと出くわしたシュグは、デス・ロウに来てくれたらと、20万ドルを手渡した。パックは現金を受け取っておきながら、グレゴリーとインタースコープを裏切る気にもなれず、移籍の話は断った。しかし、確実に種は蒔かれたのだった。

 ファンは、トゥパックがリアルだとどこまでも信じ、[ジュース]で「俺は狂ってる・・・けど、それが何だってんだ」と冷ややかに言い放ったあのビショップがトゥパックその人なのだと信じて疑わなかった。そして、トゥパックの日常のありさまもそうした期待を裏切らないものになっていった。最初の事件は[2パカリプス・ナウ]のリリース直後、オークランドで起きた。
 信号無視で切符を切られ、警官に噛みついたところ、血だらけにされ拘置された。
 その三ヶ月後、テキサスの州警察官が19歳の黒人の車の窃盗犯、レイ・ハワードを職務質問した際に逆に射殺されるという事件が起きると、トゥパックの歌詞がその殺人のきっかけになったと糾弾された。賠償総額数百万ドルにも及ぶ訴訟は結局、却下されたが、クエール副大統領はトゥパックの音楽など「わたしたちの社会で温存させられる余地などまったくない」とまで公の場で言い切った。93年の10月、さらに問題が起こった。ショーがハネてアトランタのホテルに戻る途中、白人二人が黒人にちょっかいを出している現場に出くわしたのだ。
 トゥパックが仲裁に入ると、非番の警官だった二人の白人兄弟は銃を抜き、トゥパックも自分の銃を抜くと瞬時に三発発砲し、二人に傷を負わせてしまった。


Atlanta その二週間後、トゥパックは、紹介されたとある19歳の女の子をスタッフと一緒に何度も強姦し、異常性行為も強要したという容疑で逮捕された。手錠をかけられたトゥパックは駆けつけた報道陣にこう語った。「俺は若い黒人で、金もがっちり稼いでるんだ。誰が裏で何を仕組んだって俺を無様に見せることなんてできやしねぇんだ」。間もなくして[ヴァイヴ]誌の表紙を飾ったトゥパックの写真は拘束衣をまとって身動きできなくなっている姿のものだった。

 「面倒なことに巻き込まれないようにするにはどうすりゃあいいんだ」とトゥパックは親しい友人によくこぼすようになった。
 「周りへの配慮ができるような場所が俺にはどこにも見当たらないんだ」と。しかし、トゥパックのキャリアそのものがそんな場所への避難を許さなかった。トゥパックをここまで押し上げてきたのはその音楽性云々というよりも、限界まで自分を追い込んでいく気がふれたような衝動であって「クレイジーになることで、俺は虚無の人生から救われたんだよ」と語っていたように、その衝動が自分をユニークな存在にしたことを承知していたはずだった。

 94年の11月になると強姦事件の公判が始まった。陪審の結果が出る晩、今では四十人もの親類縁者を支えなければならなくなったトゥパックは、客演でギャラ七千ドルの話があるとポケベルで知るとニューヨークにあるそのスタジオに向かった。ドアが開くと、二階の踊り場から聞こえた声は、東海岸のラッパー、ノトーリアスBIG(ビギー・スモールズ)の付き人の声で、トゥパックは安心した。ビギーも、ビギーのレーベル・オーナー、ショーン・パフィ・コムズも知り合いだったからだ。トゥパックはエレベーターのボタンを押した。そこへ突然、二人の黒人男性が乗り込んで、自動小銃をトゥパック一行につきつけた。親友ランディ・ストレッチ・ウォーカーを含むトゥパックの連れはみな床に飛び伏せたが、トゥパックは凍ったままだった。
 「ばか野郎、死にやがれ」と暴漢の一人がトゥパックのダイヤの指輪とゴールド・チェーンをもぎとった。それから破裂音と閃光が走り、さらに四発続き、銃弾はトゥパックの頭、手、睾丸に当たった。


 翌日、見舞いに駆けつけたアフェニは幸い、傷が軽かったことを知らされた。その日、陪審の判決が伝えられ、トゥパックは陵辱、強姦、武器の所有については無罪放免、「同意のない性的な接触」については有罪となった。刑期については判事の裁量を待たなければならなかった。

 「俺はもうゴロツキにも蹴りをつけたつもりだよ」と判決を待つ間、トゥパックはパウエルにこう語っている。「これからはみんなに俺の・・・真心を見せてやるつもりなんだ。俺のおふくろが育て上げてきた俺ってもんを見せてやるんだ」

 しかし、判事の考えはいささか違っていて、トゥパックの「傲慢さ」を矯正するためにも四年半の刑期をニューヨーク州ダネモラにある最も厳重な施設で服すように言い渡した。
 弁護側は上訴し、保釈金百三十万ドルを何とかして工面しようと奔走した。新作[ミー・アゲインスト・ザ・ワールド]はリリースされた直後にチャートの1位に輝いたが、印税の戻りは遅かった。まずは、経費と法律面での費用を相殺していかなければならないためトゥパックはしばらく刑務所で我慢しなければならなくなった。刑務所では看守によく小突き回されたが、ブラック・パンサーと深く関わっている家系の噂が広まるにつれ、囚人受けはよくなった。ヤキを入れられる心配もなくなると、トゥパックは日常を詩の執筆と、ルネッサンス期のイタリアの思想家マキャヴェリの研究に費やした。


Puffy & Biggie しかし、監獄での夜はやりきれないものだった。汗まみれになり、叫び声を上げながら目が覚めることも珍しくなかった。警察によれば、あのニューヨークでの襲撃は単なる物盗りだということだった。しかし、あれはビギーが仕組んだとしか思えてならなかった。
 パフィも一枚かんでいるかもしれないし、トゥパックのことなどそっちのけで身を隠した親友ストレッチだってわからなかった。刑期が十一ヶ月目を迎えた頃、それが自分をさいなますんだとトゥパックは語った。誰も自分を守ってくれていないのだと。

 シュグにとってトゥパック獲得に今ほど絶好な機会はなかった。年間収益が一億ドルにも及ぶデス・ロウを切り回すシュグはこの頃、レーベル・オーナーとしての絶頂期を迎えつつあった。刑務所を訪れたシュグは、デス・ロウとは「ファミリー」なのであり、自分は「親父」として「家族」の面倒をきっちり看ていると説明した。何なら自分が保釈金の面倒をみよう。トゥパックにやってもらいたいのは、自分たちの一員になってほしいだけだ。
 「おふくろに家を買いたいんだ」とトゥパックが切り出すと、わかったとだけシュグは答えた。そこで、シュグの弁護士が3ページに及ぶ契約書を取り出した。トゥパックは契約書に一瞥くれてから署名した。

 その苦闘の時代からずっと彼を応援し続けてきた多くの人々にとって、トゥパックのデス・ロウへの移籍は終末への第一歩だった。「俺たちは彼が魂を売ったとしか思えなかったよ」トゥパックと家族ぐるみの付き合いのあった友人は言う。
 トゥパックも当然ながらシュグの悪い噂をよく知っていた。「でも、彼は言ったんだ、面会室のガラスの向こうで、“俺は何が何でもこっから出てやらなきゃならねぇことがあるんだよ”って。そう言われちまったらさ、もう一体何が言ってやれる?」


 保釈後、すぐに制作に入ったトゥパックは釈放からわずか六日の間に14トラックを完成させた。
 「俺とシュグは」とトゥパックは[ヴァイブ]誌に語っている。「相棒として完璧なんだよ。シュグのノリは俺と同じなんだ・・・昔はどんなニガも俺のことなぞなんとも思っちゃいなかったんだろうけど、今じゃ俺は尊敬されてる。なぜってあほんだらども、みんなシュグにビビッてるからだよ」

 それどころか、この頃からシュグの「親父ぶり」は常軌を逸しているのではないかと誰もが怪訝に思い始めるようになった。というのは、トゥパックが撃たれた日から考えて一年と一日後、クィーンズの路地でかつての親友ストレッチが処刑されたように射殺されていたからだ。そして、この事件と、ソウル・トレイン賞授賞式で、シュグの取り巻きとパフィの取り巻きがそれぞれに発砲事件を起こしたことから、初めてメディアでも東海岸と西海岸の「ヒップホップ東西抗争」が取り沙汰されるようになった。

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