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2Pac Interview "This Thug's Life"
俺が死んだ時、人は初めて真意を理解するするんだ

凶弾に倒れたトゥパック、93年のインタビューである。まるで予言のような箇所があるのが不思議だ。これは暴行容疑でメディアから距離を置いていた彼の、生い立ちを含む貴重な発言録である。

(C) Kevin Powell/ 1994 Time Publishing Ventures Inc.
『お前の姿が見えるよ ブラック・ボーイ
 破滅に向かってのめり込みながら 追い詰められた目で死を見つめてる』
 ――ソニア・サンチェス、詩人

 清々しい11月のある水曜日の朝――感謝祭の前日――マンハッタンのダウンタウンはセンター・ストリート100番地にある120号法廷は、大部分ブラックとラティーノの男たちで定員一杯だった。彼らの間には一様に幻滅が空気のように漂っていた;ある者たちは長い木のベンチにだらちと前屈みに腰かけ、またある者たちは傍聴席に見知った顔を求めて、ひっきりなしに上半身をよじって辺りを見回している。恐らく今日のこの興奮は、メディアの存在と被告が有名人でなければあり得なかったに違いない。「ほらあそこ、トゥパックよ!」スキッ歯の黒人の少女が、誰に言うともなく弾んだ声をあげた。それに呼応して胸板の厚い白人の若者が2人、強いクイーンズ訛りで彼の名前を唱和する。まるでそれが、世紀の大発見であるかのように。
 トゥパック・シャクールはこの状況にはまるで意に介さない様子で、今日の議定の進行役である裁判長の方に時折ちらちらと目をやっていた。肛門性交の強要と性的虐待で起訴され、トゥパックはこの数週間メディアの集中砲火の的になってきたが、この火にさらに油を注いだのがスヌープ・ドギー・ドッグとフレイヴァー・フレイヴという2人のヒップホップ・スターたちの相次ぐ逮捕劇だった。ニューヨーク・シティ各紙の報道によれば、去る93年11月18日、トゥパックは数日前に地元のクラブで知り合った20歳の黒人の女性を、力ずくで強姦したのだという。この女性の申し立てでは、彼女はこの日、トゥパックの滞在していたマンハッタンの豪奢なホテル、パーカー・メリディアンを訪ね、二人は彼のベッドルームで抱き合った。そこへ間もなくトゥパックの友人3人が入ってきたので、彼女は立ち去ろうとした。だが、彼女の言い分では、4人の男は彼女をその場に押さえつけ、髪を引っ張り、性的虐待を加え、何度も繰り返し肛門性交を行った。検察側は、トゥパックが「彼女のことをとても気に入ったので、自分の仲間たちにご褒美として分け与えようとした」のだ、との見解を示した。これらの嫌疑が明らかにされたのは、そのほんの2週間前、彼がアトランタで非番の警官二人に対する発砲容疑で逮捕され、5万5千ドルの保釈金を積んで釈放された直後のことだった。
 この訴えを退け、否定的なパブリシティを打ち破るために、トゥパックの弁護士、マイケル・ウォーレンは、原告がトゥパックの留守番電話に残していた露骨にセクシャルなメッセージを勝手に消していたとして、ニューヨークの警察官らを起訴した。ウォーレンによれば、11月14日――トゥパックと原告が出会った夜――クラブのダンスフロアで、このラッパーとオーラル・セックスに耽っている若い女の姿を複数の人間が目撃している。さらに検察側は、この女性がその同じ晩、合意の上で彼とのセックスに及んだと証言していることを認めた。今週後半に予定されている共同記者会見でウォーレンは、同じホテルに彼を訪ね、何事もなく帰ったミシェル・フエンテスという18歳のファンに同席させ、トゥパックの女性に対する接し方があくまでも友好的なものであることを印象づけようと考えている。ウォーレンは、彼の弁護士チームがこれまでトゥパックと――性的な意味でもそれ以外でも――接したことのある数多くの女性たちに話を聞いており、彼の性格証人(被告の評判・素性・徳性等について証言する人)として「今後、さらに多くの若い女性が進んで証言台に立つことになるでしょう」と言う。
 だが、トゥパック自身が好んで売りにしている、絶えず銃がつきまとうイメージと、黒人女性を侮辱するようなパブリシティ(ある若い黒人女性は、昨年のブラック・レディオ・エクスクルーシブのコンベンション会場であったホテルのロビーで、トゥパックに手酷く非難されたと発言している)を見ていると、一体彼はそれぞれのケースをどうやって巧く切り抜けてゆくつもりなのか、疑問を禁じ得ない。さらにこれら一連の嫌疑が、トップ10シングル“Keep Ya Head Up”――女性を讃美し、同時に彼女たちを侮っている男性たちを批判する内容を持った曲――が、彼にとってはこれまでで最大のヒットとなったのと並行して持ち上がったものであったというところが、いかにも彼の矛盾に満ちた性質を象徴するかのようではないか。
 周囲を取り巻く論争の雲と、当時製作中の映画――彼はニューヨークで、ジェフリー・ポラック監督による学園もののバスケット・ボール・ドラマ、『Above The Rim』の撮影に入っていた――がありながら、この8月にアトランタで開催されたブラック・ミュージック・コンベンション『Jack The Rapper』で私が会ったトゥパックは、どこから見てもまるでお気楽な、行き当たりバッタリの22歳の若者にしか見えなかった。当時、この驚くほど背の高い青年は、『Poetic Justice』にジャネット・ジャクソンの向こうを張って主役級で出演したばかりであり、シングル“I Get Around”は数々のラップ・チャートを席巻しているところだった。ホテルのロビーに立ち、ファンの女性たちや男性たちの「わぁ!」とか「おぉ!」の声を気持ち良さげに吸い込んでいる彼に対して、一体どう接すればいいのか迷いながらも、私は自己紹介した。と、彼の気取った態度が――少なくともその一瞬――消え、大きな音を立てて私と掌を合わせると、デカい声で叫んだ。「よう、調子はどうだい、えぇ?!あんた、あのMTVの番組やってただろ。俺、凄ぇ好きだったんだぜ、なぁ・・・」
 今日のトゥパックはあのB・ボーイ・マチズモの落とす影でしかない。様々な色合いや体格をした黒人の男たちの一群に囲まれながら、共同被告たちと並んで裁判官の前に進み出た彼は、まるで迷子になった幼い少年のようだった。嫌疑が読み上げられ、次の公判の日が告げられると、レポーターたちは裁判所の前でいよいよとばかりに待ち構えた。逮捕された晩、トゥパックはプレスに向かって、厚い胸板を波打たせながら勢いよく言い放った。「俺は若くて、ブラックで・・・俺はいまガンガン金儲けてるが、あいつらにはそれを止めることは出来ねぇ。あいつには俺をダーティにすることなんか出来やしねぇんだ、だって俺はクリーンだからな」
 だが今日、彼とその一団が裁判所を後にする時、その挑発的な態度はもはやどこにも見えず、何とか話を聞こうと群がる人々の間を、彼はセキュリティたちの何本もの筋骨隆々とした腕にがっちりと護られて足早にくぐり抜け、待っていたバンに押し込まれるように乗り込んで、場外で待っていたニュース番組の取材班を困惑させたまま、猛スピードで走り去ったのだった。
 これまで、こうした数々のトラブルが起こる前、つまりニューヨークとアトランタでの事件が起こる前には、一部のファンジンを除いて、トゥパック・シャクールの物語を語りたがる者は誰もいなかった。しかし、彼のキャリアが発展し、同時に彼が法とモメ事を起こすことが度重なってくるにつれて、私は自分の意識の中に状況や流れを細かく刻み込むようになった。無論それはやがて来るインタヴューの機会に、拠り所にするためだったが、この記事は決して一人のラッパーの生い立ちに終始するのではなく、現代のアメリカ社会に生きる若い黒人男性が直面しているアイデンティティ・クライシスの問題、ヒップホップ・カルチャー固有の厄介な幾つもの矛盾を、1994年の視点から描き出したいと思ったのだ。そのテーマの主役としては、トゥパックはまさに適役であり、実際その多くの問題において、避雷針の役割を果たしてくれるのではないかとさえ思われた。
 だが、そこで物語は急展開を見せた。そう、彼は怒れる黒人の若者である。だが、彼は一体何故これほどまでに怒っているのだろう?彼は一体どこから来たのか?何が彼をあぁした発言や行動に走らせるのか?トゥパック・シャクールに対して現在起こされている係争の数々は、単に偶然が重なっているのか、それとも彼の弁護士が言うところの、巧妙に“仕組まれて”いる事なのか、もしくはもっと深刻な問題を示唆しているのか?果たして彼は現代アメリカの社会システムによって手枷足枷をかけられている黒人青年たちの象徴的存在なのか、それとも他の誰とも違う、無軌道なひとりの黒人の若者なのか?
 11月と12月のふた月をかけて、彼のパブリシスト、マネージャー、レコード会社、親しい友人たち、そして彼の母親にまで電話をかけこのインタヴュー取材を行った時、トゥパック・シャクールは今にも崩れそうな状態だった。彼らは一様に、メディアは不公平だ、彼はもう話をしたがっていないと言ったが、最終的に彼は私のインタヴューに応じてくれた。それはもしかしたら私があの逮捕劇よりずっと前からこの記事に取り組んでいたことが分かったからかもしれないし、もしかしたらもう一度だけ、一連の事件に関して彼の側のストーリーを語るにはいいチャンスだと思ったからかもしれない。

 「トゥパックはいつも自分で遊びを考え出す子だったわ――いつでもね」。彼のニューヨークでの一件の罪状認否手続きから一週間後、そしてアトランタでの審問の翌日、トゥパックの47歳になる母親、アフェニ・シャクールはそう話し始めた。小柄で濃い褐色の肌。短く刈り上げた髪に、深いエクボの刻まれた顔を持つアフェニは、アトランタ郊外のジョージア州ディケイターにある慎ましやかなアパートに住んでいる。彼女の急き立てられるような口調は、長年の政治活動によって染み付いてしまったものだという。「あの子はよく、近所の子供たちと一緒にヴォーカル・グループごっこをやってたのよ」
 彼女は続ける。「そうして自分はプリンスになったり、ニュー・エディションのラルフになったりね。あの子はいつだってリーダー役なのよ」
 だが、トゥパック・アマル・シャクールの少年時代は、それだけで過ぎてきたわけではなかった。インカの首長にちなんでつけられた名前、トゥパック・アマルは、智慧と勇気の象徴である“光る大蛇”という意味を持っており、ジャクールはアラビアの言葉で“神に感謝する”という意味である。公民権以後のアメリカの大都市の中心部で育った若者たちと同様、多くの問題――貧困、父親の不在、絶えず繰り返される転居――の中で人格形成が行われたのは勿論だが、彼の物語は生まれる前から既に始まっていたのである。
 アフェニ・シャクール(ノース・カロライナ生まれ、出生名アリス・フェイ・ウィリアムス)は、「60年代初期の人たちと同じように、TVで公民権運動を観ていたわ」と言う。十代にして悪名高いディサイプルズ団の一員となり、自分のフラストレーションを政治的活動に注ぎ込んでいった背景として、アフェニは二つの大きなファクターを指摘する;ひとつは1968年、ブルックリンのオーシャン・ヒル=ブラウンズヴィルで起こった、親と学生による歴史的ストライキ(彼女の甥はここの学生の一人だった)、そしてもうひとつはニューヨーク・シティにおけるブラック・パンサー支部の誕生である。
 1966年、ヒューイ・P.ニュートンとボビー・シールによって結成されたパンサーズは、ハードコアなゲットーや、ジェーン・フォンダ、レナード・バーンスタインといった白人の支援者たちから支持を集め、瞬く間に公民権運動の過激な急先鋒へと成長した。銃を携え、好戦的な性格を誇示するスタイルと反乱分子的な戦略で最もよく知られ、そのためにFBIの監視や手入れに遭いながら、一方でパンサーズはコミュニティ重視の組織であり、アメリカ中のブラック・コミュニティで、子供たちに無償で朝食を支給したり、住民たちに無料で健康診断を実施したりといった活動も展開している。
 アフェニがパンサーズに入ったのは、1968年9月のことだった。69年4月、彼女は20人のニューヨーク・パンサーズの党員たちと共に、ニューヨーク市内の公共の場所の爆破謀議を含む複数の容疑で逮捕された。裁判は25カ月に及んだ。保釈で出所している間に、アフェニは二人の男と関係を持った――掛け値なしのヤクザ者、レッグス(「彼はクスリも売ってたし、金を作るためにはどんな事だってやってのける男だったわ」)と、同じ党員のビリーと。彼女はそれ以前に、一緒に逮捕され、当時は投獄されたままだったマンバ・シャクールと結婚していた。後に彼女が妊娠したことを知ると、彼は彼女に離婚を申し渡した。
 71年初めに保釈が取り消されると、アフェニはトゥパックを身籠もったまま、グリニッヂ・ヴィレッジのウィメンズ・ハウス・オブ・ディテンション(女性専門の留置所)に収監された。パンサー21事件の裁判を闘う一方で、彼女はまた自分と生まれてくる息子のために、「日に卵ひとつとグラス一杯分のミルクを支給してもらうように」闘い抜かなければならなかった。その頃の事を語るうちに、彼女の目は今にも溢れ出しそうな涙でいっぱいになっていた。「あの子が死なずに生まれてくるなんて、考えてもみなかったのよ」
 1971年5月、アフェニは13人の仲間たちと共に、全ての容疑に関して無罪放免となった。そのひと月後の6月16日、トゥパックは生まれた。両手を震わせ、アフェニは身を乗り出して、煙草をしっかりと指の間に挟みつけ、深々と吸い込んだ。彼女は口元に手をやり、しばし思いに耽った。
 「赤ん坊が生まれたら、すぐに私の手から取り上げられてしまうんじゃないかって、とても怖かったの」。曲げた両肘を膝に強く押しつけながら、彼女は再び口を開いた。「私は殆ど半狂乱の状態だったのね。医者は赤ん坊が生まれてすぐに、外にいた私の妹に渡したの、そうすれば彼女が後で・・・」、アフェニは泣き出した。「そうすれば彼女が後から、この子は間違いなくあんたの子よ、って証明してくれるだろうから、って」

 「うちのオフクロはいつだって俺には本当の事を話してくれたよ」。その同じ日の遅い時間、トゥパックはアトランタ郊外の新居のソファに腰を下ろし、感慨深げに煙草を長々と喫い込んでから言った。「俺が言われたのは、『お前の父親は誰だか分からないのよ』、それだけだ。彼女が身持ちが悪かったからとか、そんな事じゃない。生きていくには厳しい時代だったのさ」
 厳しい時代とは、アフェニが政治的活動と二人の子供を育てるという現実の生活の経済的事情とを危ういバランスで支えていた頃を指している。トゥパックによれば、一家はブロンクスとハーレムの避難所で生活したこともあった。
 「俺はいつもビービー泣いてたよ」、彼は言う。「ガキの頃の俺が抱えてた最大の問題は、どこにも馴染めなかったってことだ。そこら中転々としてたから、ずぅっと一緒に大きくなった幼馴染みってのがいないのさ。
 新しいアパートに移る度に、俺は自分をゼロの状態から作り上げ直さなきゃならなかった。ゲットーで生まれりゃ、どこに行こうとすぐ馴染めるだろうってみんな思ってる。けどほんの些細な事がきっかけで、何をやったってどこにも馴染めなくなることだってあるんだぜ。フッドから押し出され、白人の世界にも入れてもらえなけりゃ、もうどこへも行き場はねぇんだ」

 彼は片方の手で紫煙を払った。「あの頃は自分の人生が、いつ何時跡形もなく崩れ去るかも知れないって絶えず考えてた・・・」
 トゥパックは今も多くのゴールド――彼言うところの「オールド・スクールのアクセサリー」――を身につけ、カーキ色のバギー・パンツは相変わらず尻の割れ目近くまでずり下げられている。シャープに切り立った頬骨。女の子のそれのように長く、端で上向きに反り返った睫毛、そして太く濃い眉が特徴的な、大きくて鋭いダーク・ブラウンの瞳を縁取り、彼はまるで幼い頃、母親の友人たちが呼んだように、異国の王子様のようである。そしてこの中二階付きの邸宅が、いまや彼の城なのだ。45インチ型の、ミュージック・ヴィデォ・チャンネル専門のカラーTVが鎮座する居間。レコーディング・スタジオにする予定の地下室。そして広大な庭は勿論プール付きである。何足ものスニーカー、ニューポートの箱が幾つか、空のファースト・フードの袋、それに夥しい数のCDやカセット、ヴィデオ・テープが床を覆っている。トゥパックのパシィであるサグ・ライフのメンバーたちが、ひっきりなしに出たり入ったりしている。このゲットー中心主義者たちの群落は、白人たちの住んでいるブロックに位置する飛び地であり、彼によれば現在の隣人たちは、黒人の若者たちが大音響で音楽をかけながらメルセデスやBMWを乗り回している姿に震え上がっているのだという。確かに、トゥパック・シャクールが相手では、恐らく隣人たちはこれ以上の悪夢はないと感じているに違いないと私は思った。
 「俺は一人ぼっちだったんだ」、彼は抑えた調子で言った。彼は現実から目を背けるために、沢山の一人遊びを考えた。「もっとうんと後になるまで、年上の兄弟もいなけりゃ遊び相手してくれる親戚もいなかった。時々はひとりで歌を作ったりしたよ、ホントのラヴ・ソングをさ。詩を書いたりもしてたな」。彼の顔に興奮が浮かぶ。「俺、日記みたいな本を持っててさ。そこに自分で、いつか絶対有名になるって書いたんだ」。彼の気分はまた逆戻りした。「いま考えてみると、あそこが俺の演じるっていう行為の原点になってると思うんだよ。とにかく、どうしようもない子供時代を送ってたからさ。俺が演技の世界に何の抵抗もなく入り込めたのは、俺にとっては自分自身から脱け出して、別の人間になり切るのなんて、ちっとも難しいことじゃなかったからだ」
 トゥパックが12歳になると、アフェニは彼をハーレムの劇団、127th ストリート・アンサンブルに入れた。「もう年頃だし、何か打ち込めるものを持って欲しいと思ったのよ」、彼女は言う。初舞台で、トゥパックは『A Raisin In The Sun』のトラヴィス役を演じた。
 ソファに深くもたれながら、トゥパックはその時の事を思い出して表情を輝かせた。「今思い出しても、俺がその気になっちまったのはあの時からだね。俺がソファで眠ってるところが最初のシーンだったんだけど、目を開けて見たら舞台の上は俺ひとりしかいないんだ。そん時思ったんだよ・・・」彼は声を落として囁くように言った。「“こりゃあこの世の中で最高だぜ!”ってさ。それでメチャメチャハイになったね。俺は秘密をひとつ手に入れたんだ:こんなのうちの従兄弟連中には絶対やれないことだ、ってね」
 だがちょうどその頃、彼は一方で、母親の政治的な考えと自分の生き方とを適合させることに苦労していた。「オフクロは俺に、白い柵とフェンスに囲まれた生活を望んでたのかも知れないが、現実には俺たちには金もなければ食うもんもない、電気さえなかった」。トゥパックは言う。「俺に学校へ行って欲しいって?この国のシステムについて、散々文句を言っときながら、そのシステムの中に俺たちを押し込もうとするんだぜ。一体こりゃどうなってるんだ、って思ったよ」
 だがトゥパックにとって恐らくもっと深刻だったのは父親の不在によって、自分に“男らしさが欠けている”と感じていたということだろう。「従兄弟たちからしょっちゅう言われてたよ、『お前は女々し過ぎるんだよな』って。俺には逞しさってもんが欠けてたんだ。何でかは分からないけど、ただ自分が強いって感じがしなかったんだよ」。彼は酷く苛立った様子で言った。「自分で料理は出来たし、洗濯もしたし、裁縫だって、家の掃除だって自分でやってた。オフクロが俺に教えてくれた事は何だって全部こなせるようになったけど、それ以上のことは彼女にはどうしようもなかったんだ」
 トゥパックはその焦燥が、彼をニューヨークのストリートへと駆り立てることになったのだと言う。そして彼主張するところの実の父親、レッグスと同じ生き方へと。「彼はいまだに俺の中にいるよ」、トゥパックは言う。かつては伝説の麻薬王ニッキー・バーンズとも組んでいたことがあるというこの昔ながらの街のハスラー、レッグスは、1980年代の初めにトゥパック母子と一緒に暮らすようになり、またアフェニにクラックの味を教えた張本人である。
 「あれは私たちの間では単なる付き合いの手段だったわ」、彼女は認める。「夜遅くにあの人が帰ってくると、私の口にパイプを差し込むの」
 レッグスはやがて、クレジット・カード詐欺で――それまでに別件では何度も逮捕歴はあった――刑務所送りになった。彼が出所してくる前に、ニューヨークでの生活の厳しさに疲れたアフェニは、子供たちを連れてボルチモアに移った。そして彼女が引っ越し先を知らせようと、ニューヨークのレッグスのところに電話をかけた時、41歳の彼はクラック吸引が原因の心臓発作で既に息を引き取った後だった。
 「トゥパックはそれで酷く傷ついてしまったわ」、彼女は自分の裸足の爪先を見下ろしながら言った。「あの子はすっかり精神不安定に陥ってしまった。それから3カ月経った後で、あの子は初めて思い切り涙をボロボロ流して泣いたのよ。そうして泣き止んでから私に言ったわ、『父さんに戻ってきて欲しいよ』って」
 「レッグスの死は俺にとってはもの凄い痛手だったよ」、トゥパックは言う。「何故って、母親が息子に、どうやったら一人前の男になれるかってことを教え込むのは不可能だからさ。特にブラックの男になるためにはな。自分と同い年くらいの、父親のいる他の子供たちが、俺の抱えてた疑問の全てに対する答を当たり前のように手に入れていくのを目にする度に、酷く苦い気持ちになった。そうして俺はいまだにその疑問に対する答を手に入れてないんだ」

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