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PART THREE ME AGAINST THE WORLD - ALL EYEZ ON ME ![]() | |
ME AGAINST THE WORLD 95年2月、遂に彼に審判が下された。罪状は先の通り。刑期は4年6ヶ月。予想していた事とはいえ、重い判決だった。こうして彼は拘置所だけでなく、刑務所に入ることとなった。 その間に、3作目となる[ME AGAINST THE WORLD]は彼にとって初のナンバー1ヒット作となる。同作はショックGが1曲のみプロデュースでDU色は当然全く見られない上、前2作で大きく関わったライブ・スクワッドのストレッチは参加せず、代わりにイージー・モー・ビーやソウルショック&カーリン等との新鮮な組み合わせが見られた文字通りの意欲作であった。 グラミー賞にノミネートされた「Dear Mama」や「So Many Tears」「Temptations」も続けざまにチャートを駆け昇った。 [俺対世界]と名付けられた、その2パックならではの世界は常に(黒人を制圧せんとする)世界と彼との闘いの記録の集大成、と高い評価を受け、その“現実の彼の姿”がオーバー・ラップして見える哀愁漂う、嘆きのサグ・ライフ語りは多くの人を魅きつけたのだった。 その頃彼は、ライカーズ・アイランドの鉄格子の中で、ニコロ・マキャベリ(15世紀イタリアの外交/政治家)の[君主論]などの書物を読み耽り、マリファナも女も銃もないその場所でサグ・ライフを棄て更生することを決意。また「ラップする事にあまりスリルを感じなくなった/架空のキャラクターを演じ続けなければならないことに疲れた・・・」との発言も・・・。 しかしながら、結局彼は、遠いLAから何度も面会に訪れたデス・ロウ・レコードのオーナー=マリオン・シュグ・ナイトの熱意に打たれ、デス・ロウ入りを決める。結局シュグが140万ドルもの保釈金を用立て、彼は晴れて服役9ヶ月にして出所し約束通りデス・ロウとサインする事となる。 こうして、デス・ロウからの第1弾となる[ALL EYEZ ON ME]の制作はスタートする。2パックはまたしてもサグ・ライフを唄うこととなった。 ALL EYEZ ON ME 96年2月、遂に2パック、デス・ロウからの第1弾となる全27曲、ラップ初のCD2枚組、アナログにして実に4枚組の大作[ALL EYEZ ON ME]をリリースする。 プロデュースのドクター・ドレイを始めとするスヌープ・ドギー・ドッグやドッグ・パウンドらレーベル・メイト、メソッドマンにレッドマン、K-Ci & JoJo、ジョージ・クリントン、ロジャーという、かつてない程豪華なメンツに包まれて完成をみた同作は、発表と同時にポップ・チャートでナンバー1を記録する。 また、映画[マッドマックス3]を模した様な先行シングル「California Love」のヴィデオ・クリップもMTVで狂ったようにオン・エアされ、2パックの異常人気は更に加速がついた。続いて彼はスヌープとの共演曲「2 Of Amerikaz Most Wanted」のヴィデオを自ら監督し、将来的にスヌープと2人で映画を撮りたい、という野望も明らかにする。 この間、デス・ロウはドクター・ドレイがシュグとの確執により同レーベルを追われるなどのお家騒動はあったが、2パック個人はいたって快調。オクラ入りになっていた映画[ハードブレット〜仁義なき銃弾](監督ジュリアン・テンプル、主演ミッキー・ローク)が一部で公開され、[グリッドロック][ギャングシティ/GANG RELATED]の撮影も順調に進んでいた。 しかし、2パックも直接的に、しかも大いに関わっているデス・ロウVSバッド・ボーイを中心とした東西ラップ戦争は激化の一途を辿るのであった。 シュグ・ナイトは2パック襲撃事件を含め、昨年9月アトランタで行われたジャーメイン・デュプリのバースディ・パーティーのあと、自分の取り巻きが殺された事や、11月にクィーンズでストレッチが殺された事もバッド・ボーイの仕業と断定し、以後彼らは雑誌面等でも事ある毎に小競り合いを繰り広げてきた。(96年3月の“ソウル・トレイン・アワード”でも両軍団は鉢合わせとなり騒動に。) そしてその燃え盛る炎に更に油を注いだのは他ならぬ2パック本人であった。 彼は先のスヌープとのヴィデオでさんざんバッドボーイ勢をコキ降ろした後に、続くシングル「How Do U Want It」のカップリング曲「Hit 'em Up」では、ジュニア・マフィア&ノトーリアスBIGのヒット曲「Gettin' Money」を意図的にチープにしたトラック上に、パフィ、ビギー他を名指しで“Fuck You!”と吐き捨てた。 この問題は、結局バッド・ボーイ側から[VIBE]誌に“我々は大陸によって分け隔てられているだけであって、決していがみ合っていないし、これからもいがみ合うべきではない”という意のコメントが寄せられたことにより終止符が打たれたように見えたのだが・・・。 |
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PART FOUR MAKAVELI - R U STILL DOWN? ![]() | |
MAKAVELI 2パックは尊敬してやまないマキャベリから名を取り、“MAKAVELI”として最新アルバムの録音を進めていた。 その一方、婚約を一旦解消していたキダダ・ジョーンズには、もうあの狂った世界=サグ・ライフには戻らない、などと漏らし、以前よりは少しおとなしく暮らしていたようだった。 しかし、9月7日に彼は友人ボクサー=マイク・タイソンのファイトを観戦するために、ラスヴェガスを訪れるが、この地が奇しくも彼の最期の地、となる。 彼とその一行は観戦後に、シュグ所有のクラブで行われるタイソンの祝勝会に駆けつける筈だった。だが、その道すがら、彼の乗っていたシュグがハンドルを握るBMW750は、突如として横付けしてきた白いキャデラックの車窓からの銃撃により蜂の巣に。シュグは軽傷で済むが、助手席に座っていた2パックは4発を肺などに被弾し、ユニヴァーシティ・メディカル・センターに担ぎ込まれる。 この事件がギャング間の抗争か(シュグは古くからクリップスとLAの縄張りを二分するブラッズと関係を持っていた)、加熱するヒップホップ東西戦争の煽りか、依然として判らなかったが病院はギャングからの次なる襲撃を恐れ、セキュリティ・サービスを徹底強化する。 案の定入院3日目には2パックの仲間連中と警察が小競り合いとなり逮捕者が出る始末。マスコミは、この一連の事件を大々的に取り上げ続け、喧噪は続いた。しかし、外の騒ぎをよそに2パックはその不死身とまでいわれた肉体を手放すより仕方ない状態に陥っていた。特に呼吸器系のダメージがひどく、被弾した右肺も摘出された。 そして担当医師による「助かる見込みは20%しかない」という白旗宣言に近いコメントが出された翌9月13日午後4時3分、彼は呼吸器官と心肺機能の停止により、25歳というあまりに短く、しかし激しすぎた生涯に幕を下ろしたのであった。 R U STILL DOWN? 彼の死後、母親=アフェニが活動を開始した。 2パックがデス・ロウ所属以前に発表したアルバム4枚、そしてその数200は下らないといわれる未発表曲の権利を取得し、2パックの本名であるトゥパック・アマル・シャクールのミドル・ネーム「アマル」をとって、「AMARU RECORDS」というレーベルを設立したのである。 未発表曲集第1弾[R U Still Down? (Remember Me)]が97年11月25日に発売され、ポップ・チャート初登場2位、R&Bチャートでは2週目にして第1位に輝くという未発表曲集としては記録破りな金字塔的成績を打ち立てたこの作品から「I Wonder If Heaven Got A Ghetto」「Do For Love」というスマッシュ・ヒットもうまれた。 続いて98年末には[GREATEST HITS]がリリースされ、R&Bチャートで初登場ナンバー1の快挙を成し遂げ、死後も衰えることを知らない人気の凄まじさを物語った。さらに、シングル・カットされた未発表曲「Changes」は世界中のチャートの上位にランク・インし、ここ日本のFM局でも毎日のようにオン・エアされて新たなファンも獲得した。 2パックは死後もなお、伝説として生き続けているのである。 |
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