HIS LIFE, DEATH & THE DEMONS
That Haunt The Hip-Hop Generation

〜かつての反逆者、トゥパックの死は、
人種、音楽のジャンル、政治の枠をこえて響き渡った〜



 あなたは今、タイムカプセルに入ろうとしている・・・・・・・この言葉が目に入ったとき、時間は1996年の9月13日の夕方過ぎに遡る。
 あのニュースは、まずい飯の後味のように、あなたの口の中に残っているのではないか。先週の土曜日の銃撃での怪我が元で、トゥパック・シャクールは死んだ。あなたの感情は霞んでいて、呆然としているだろう。そして、ことのすべてが完全には理解できていないだろう。
 ブラザーであり、スーパースターだった彼の悲劇的な死に対する恐怖の波が押し寄せるのを感じ、解放された可能性の消滅に狼狽し、われわれの死ぬべき運命の督促状に怯えるのではないか。
 あなたが彼を愛していようが、憎んだり、まったくの無関心であろうがトゥパックの死はあなたに影響を与えている。いずれ歴史は、マーヴィン・ゲイやジェームス・ディーン、その功績が認められる前にこの世を去った天才達のように、彼に共鳴するようになるだろう。
 トゥパックの死は、国民投票でもある。創り上げた不死身神話を、若い黒人達に信じさせ、演出してきた我々すべて(アーチスト、ファン、レコード産業、そしてメディア)の役割を検討する良い機会だ。
 私たちは「ソース」誌に於いて、特に責任をもって、我々の世代にとって希望を持てる状態を引き出すための手助けをしたい。
 最後になるが、私たちは、トゥパックの複雑な私生活 、都市の病原がルーツになっている彼の暗黒のギャングスタとしての表現や、ヒップホップ産業と、コントロールできないレベルのこれらの表現 (トゥパックの一側面と、他の)の操縦の手助けをするアメリカ文化との奇妙な関係を背景にしたその表現方法を少しでも提供していきたい。
 あなたが彼に対してどのように思っていても、トゥパックは勇士だった。彼のような人物は、二度と現われないだろう。
Selwyn Seyfu Hinds


>>SOULJA'S STORY: PAC'S THEME
 彼は、死に対して情け容赦ないところに住んでいた。
 彼は、スラム街の業績と、自滅のポスターボーイだった。
 彼は、繊細な詩人で、アル中だった。
 彼は、我々の目の前で死んだ。
 彼は、マリファナを使って、都市の病気を取り扱った。
 彼はサグであり、母親っ子だった。
 彼は、眉が濃く、歯を見せてにっこり笑った。
 彼は双子座で、Bボーイとしての愛と、激しい苦痛の両方を知っていた。
 彼は、帰る場所を求めて、ストリートや、スタジオを彷徨う放浪者だった。
 ・・・そしてついに一つの地を見つけた。

 13日の金曜日、午後4時3分(アメリカ標準時)、トゥパック・シャクールの心臓は停止した。死因は呼吸不全と、心臓麻痺。「He Coded.」病院の代表者が言った。これは、医学用語で、死を意味する言葉だ(コードがブルーになることから)。
 「医者は、彼の蘇生に全力を尽くした。しかし、彼は帰ってこなかった」
 検死の結果、彼の心臓麻痺は、胸に受けた多くの銃弾による怪我が引き起こしたものと決定された。この時、トゥパック・シャクールが、自分自身誇りに思っていたことの一つ 〜生に対する彼の意志〜 が、許し難い手口によって消えた。



>>DEATH AROUND THE CORNER
 俺のために涙を流すな、ニガー 俺はここでは幸せじゃない/
 俺は、奴らが俺を埋葬し、安住の地へ運んでくれることを望む/
 “murdered to death”という見出しで/my last breath
 ― from Tupac's“If I Die 2nite”

 アルバム『2Pacalyspe Now』で予言していたように、150ポンドの体に穴を開ける激しい銃撃の末、彼は死んだ。
 9月7日のラスヴェガスでのマイク・タイソンとブルース・セルドンの試合の数時間後、トゥパックと、デス・ロウ・レコードの社長マリオン・シュグ・ナイトは、ラスヴェガスの目抜き通りであるザ・ストリップの近くをドライブしていた。彼らは、ボディーガードを乗せたおよそ10台の護衛車を右後方に従え、ランDMCと、クレイグ・マックが出演する予定になっていたクラブ662へ向かった。
 土曜日の夜、11時15分を回った頃、白いキャデラックが、シュグが運転する黒いBMW750に横付けし、発砲した。目撃者の一人によれば、2人の男が飛び出し、車の中に13発弾を打ち込んだ。
 その時、防弾チョッキを着ていなかったトゥパックは、胸に4発の弾を浴びた。ナイトは頭に弾の破片とガラスがかすめ、わずかにケガを負った。
 すぐにユニヴァーシティ・メディカル・センターに運ばれ、外科医がトゥパックの胸の広範囲に渡る内出血を止めるため、必死の集中治療を行った。4発のうち2発は、彼の“Thug Life”のタトゥーのそばに当たり、出血を引き起こしていた。
 次の日の朝11時にシュグは釈放され、その間トゥパックは生命維持装置によって呼吸をするという危篤状態のままだった。
 彼の命を救う努力として、外科医は少なくとも3つの手術を施し、彼の右の肺を摘出した。悲しみに打ちひしがれたヒップホップ・ファンが彼の再生を願っている間、トゥパックは死の縁を彷徨っていた。そして6日後、意識が回復することなく、トゥパックは死んだ。
 しかし、彼がまだ1階の病室で持ちこたえている間、うわさが瞬く間に広がった。当初は、銃撃はトゥパックがMGMホテルで夕方に口論をしていたことが原因ではないかと信じられていた。ところが、ラスヴェガス市警のGreg McCurdyは、ホテルの監視テープを調べたところ、口論は動機にならないと判断した。
 シュグの側近のある情報源(匿名を条件に話してくれた)によると、ナイトは社のスタッフを軟禁状態にし、事件の内部調査が終わるまで釈放しなかったという。
 すぐに、まるでコンドルが獲物をめがけて急襲するかのように、主流のメディアは、過熱気味の東西抗争の最近の出来事を銃撃の原因ではないかとレッテルを貼り、飛びついた。報告書が出回り、ニューヨークの警官はノトーリアスBIG(ビギー・スモールズ)を捜し、銃撃について、尋問した。しかしラスヴェガスの刑事によれば、多くの抗争を暗示する物証を調べたが、ビギーへの尋問で証拠を挙げることはできなかった。
 ある警官からの情報によれば(これも匿名希望)、銃撃はデス・ロウ陣営とコンプトンのストリート・ギャング間の長年の抗争が引き起こしたものだという。
 ロサンジェルスの情報源も、抗争の発火点の可能性としてソウル・トレイン賞授賞式のパーティーの後の、デス・ロウのギャング・メンバーの死を挙げている。Kelly Jamersonという28歳の男が昨年2月のパーティーで殺された。パーティーでのギャング間の口論が原因だった。
 9月のニューズウィーク23号である警官は、トゥパックの死のちょうど4日後にコンプトンの2人のクリップスが撃たれたのは、ラスヴェガスの銃撃の直接の仕返しだと言っている。21歳のMarcus Duron Childsと、Timothy Flanaganの2人は、コンプトンのドライブウェイで、車にいるところを襲われた。2人ともその時のケガがもとで死亡した。
 音楽産業と、ロサンジェルスのギャング・ネットワークの地下組織と親しい者の情報では、銃撃は予めわかっていたことだという。
 デス・ロウ・レコードと、ナイトはコメントを拒否している。次のような一文が陳述してあるレーベルがリリースされただけだ。
 “シュグ・ナイトとデス・ロウ・レコードのファミリー全体が、我々の兄弟であり、ラップスターだったトゥパック・アマル・シャクールの死を悲しんでいる。真の戦士だったトゥパックは、金曜の午後に息を引き取るまで、彼の人生と精力的に戦ってきた”
 この記事が書かれている9月半ばまでに逮捕者は出ていない。警察は、事件解決の手助けとなる目撃情報を求めている。ラスヴェガスの捜査官はナイトに対し2度の事情徴収を行ったが、かつてNFLのロサンジェルス・ラムズのフットボール選手だった彼は何の手がかりも与えなかった。
 トゥパックの死後、デス・ロウ・レコードはロサンジェルスで彼のための追悼式を行った。ニューヨークでは、ネイション・オブ・イスラムのコンラッド・モハメッドが大勢のヒップホップの有名人をハーレム・モスクに召集し、ラッパーの死に際して団結を促進するよう努力した。
 トゥパックの体は彼の死後、火葬された。彼の家族はその後ラスヴェガスでプライベートに葬式を行った。



>>DEAR MAMA
 トゥパックが撃たれた数時間後、私はラスベガスへ飛び立った。待合室では、事件に強い関心をもつ人々が最新情報を待ちわびていた。
 心配そうな家族は、赤い目をこすり、狭い部屋をうろうろと歩き回った。トゥパックのクルー、アウトロウズは、張り詰めて当惑しているように見え、恐らく、パーティーの夜が一転して牙をむき、恐ろしい朝に変わったのが信じられないといった様子だった。クインシー・ジョーンズの娘で、トゥパックのガールフレンドだったキダダ・ジョーンズは、待合室の椅子に、ナーバスに落ち着かない様子で座っていた。
 この街でチャンピオンシップの戦いを見せたジェシー・ジャクソンは、トゥパックの母親、アフェニ・シャクールを抱き締め、ラッパー仲間をなぐさめた。病院の外側にある縁石の上で、ジャクソンは、撃った人間に対してでなく、社会全体を非難した。
 「トゥパックはいつも危険にさらされていた」ジャクソンは私に言った。
 しかし、これは彼だけではない。私たちが住むこのバイオレンスな文化の中で、精神に密着したサバイバルは、復讐や報復を引き起こしすぎる。
 トゥパックの母親、アフェニ・シャクールは、牧師のもとへ1人で向かい、このような立場に立たされた場合、多くの黒人の母親がするように、銃弾ではらわたをえぐられ、ベッドに横たわる息子を思い(悲痛のしぐさとして自分の)手をもんだ。レコードでヒットを飛ばして高価な宝石をまとい、終わりなき論争を繰り返していても、それは他でもない彼女の息子だった。
 そこには、メディアで登場する“ギャングライフ”の風刺画も、MTVでの性欲過剰なアライグマのような面影はない。彼女が拭いているのは、まさに少年の顔だった。そのしぐさは、母親が汚れたおしめをきれいにするように、ごく自然なものだった。
 私は病院の廊下を彼女と一緒に静かに歩いた。彼女の反応を無神経に探るよりも、笑顔だけを供給したいと思った。ビデオなどでやたらと発砲して自慢気なラッパーの姿はなく、そこにあるのは肉体を引き裂く銃弾の余波と、不安のあまり待合室をうろうろする母親の激しい苦痛の姿だった。
 「日常生活の中で、暴力は深刻なことじゃない」ジャクソンは言った。
 「それはゲームだ。今の若者は、死がどのような結末をもたらすのかということに免疫ができている」
 私はアウトキャストのドレイが言ったことは正しいと思った。
 『母親は9カ月かかっておまえを創り上げるが、ニガーはたったの30分で、それを取り上げてしまう』



>>HOW LONG WILL THEY MOURN ME?
 トゥパックが死んだ後、ドッグ・パウンドのダット・ニガ・ダズは、ロサンジェルスの92.3 The Beatラジオ局を訪問し、彼のレーベル仲間の死を祈るように、街全対に呼びかけた。
 明らかに感情的な口調で、ダズはリスナーに対し、命を大事にするように訴えかけた。
 彼が言った最も重要な事は、戯言や、躓きが最後に彼に教えたことだった。
 「多くの人間は、最初は俺の敵でなく、友人になろうとする。少なくとも自分は、お前らに俺の敵になってもらいたいと断言できる」
 (トゥパックの死に)ショックを受けた者は、詩や、トゥパックとの出会いの詳細について電話をかけてきた。
 「トゥパックの目には、どんなやつにも滅多に見ることができない確かな炎があった」
 ラップ集団以外の所で、トゥパックの死は不信と絶望感で迎えられた。ある者は、ギャングスタラップの厄介払いではないかと考え、ある者は、単に若者が生まれてから直面してきた悲劇の最終地点だと言った。
 「私はこの事件はラップ・ミュージックに壊滅的な影響はないと思う」
 ラップの開拓者であり、デフ・ジャム・レコードの創設者であるラッセル・シモンズは、ラッパーの死による(ラップ音楽の)分裂の可能性について語った。
 ファンはテキサスからワシントンDC、ラスヴェガスに及んで、通夜を行った。ロサンジェルスの哀悼者達は、トゥパックの家に花を敷き詰めた。
 彼の死の影響は、人類や経済の枠を超え、郊外に住む白人の両親はすすり泣くティーンエイジャーたちの姿に当惑し、シングルマザーたちまでも、彼の心からの歌詞にどんなに喚起されたか詳しく話した。
 「これは大きな損失だ」シモンズは言った。
 「彼は現代において最も優れた詩人だった。彼は非常に洞察力に優れ、ラップをここまで洗練したレベルに高めたのは他に類がない。彼がどんな教育を受けたかは関係ない。トゥパックは彼の音楽の中で正直に広く感性を伝えたんだ」



>>DEFINITION OF A THUG NIGGA
 俺が死ぬという噂を聞いた/冷血に殺され、脚色される/
 俺の最期の有様の写真を見れば、俺が泣いているのがわかるだろう
 ― from Tupac's“Ain't Hard to Find”

 トゥパックの短くも激しい人生の意味を彼の歌詞から抜粋するのは、容易な事だろう。歌詞をしっかり聞けば、彼の精神が浮き彫りになってくる。彼の詩は、血生臭さく、古傷をさらけ出し、狂った環境の中で育ったブラックボーイ達の試練を要約したものだ。
 彼のタフガイとしてのカリスマ性と、真のスラム街の味、そして現代のポップミュージックにおいて、ほとんど無敵の挑戦的な精神を持ち合わせた音楽で、トゥパックは人々を魅了した。
 1971年の6月16日、黒人人権運動のさなか、トゥパック・シャクールはニューヨークのブロンクスで産まれた。
 彼の母親であるアフェニ・シャクールは、ニューヨークのブラックパンサーの熱心な活動家だった。トゥパックを妊娠中に刑務所に入れられ、彼女の一人息子が産まれる丁度2カ月前に釈放された。
 トゥパックの父親はわからない。ニューヨークタイムスの記事によると、彼女は2人の男性と寝たが、どちらが父親なのかわからないという。
 早い時期から才能が見え始め、友人達は、そのシャイボーイは間違いなく有名になるヤツだと言っていた。
 「俺は10歳の時のトゥパックを知っている」
 トゥパックがブルックリンの教会に行っていた時の友人、チャールズ・バロンは言う。
 「彼はその時からいくつか詩を書いていた。彼はリアルだった。とてもリアルだった」
 トゥパックの最初の公的な活動は、13歳の時にアポロシアターで「レイジン・イン・ザ・サン」に出演したことだ。すぐに、彼は母親と妹と一緒にボルチモアに移り、演劇学校へ入学した。
 “shit”という言葉やトラブルもなく、彼は演技とバレエを学んだ。間もなく、家族は再び荷造りを始めた。
 1988年、彼らはベイエリアに移った。そこでトゥパックすぐに、サグ・ライフのスケッチ・キャラクターになるペルソナを形成し始めた。
 彼の「the life」への入団は、ジャングルというニックネームの住宅街、マリン・シティでのドラッグの行商を伴い始めた。
 MCニューヨークの名前を使い、彼はラップ音楽への愛着を深め、生々しいストリートの生活のリアリティを反映した詩の中に彼の才能が織り込まれた。
 ベイエリアのヒップホップのファンは、トゥパックがワン・ネイション・MCズと呼ばれるグループでラップをしていた初期の頃から彼を知っていた。しかし、彼が最初に世に出るようになったのは、デジタル・アンダーグラウンドと組んだ時だ。
 彼の1990年の活動はインタースコープ・レコードとの契約による報酬を受けていた。トゥパックのデビューアルバム、1991年の『2Pacalyspe Now』は、ギャングスタ・ラップのジャンルに感受性を取り入れたもので、その頃としてはまれなものだった。「Brenda's Got a Baby」では十代の母親の実態を取り上げ、「If My Homie Calls」では、ホームボーイの無条件の愛を甘く語った。
 彼は映画『Juice』の中で裏切り者の10代のサグを演じて賞賛を受け、後に93年の『Poetic Justice』で野心的で魅力的なLucky役を演じた。
 セカンドアルバム『Strictly 4 My N.I.G.G.A.Z.』の中では、当時の副大統領ダン・クエールを糾弾し、警察の横暴を批判し続け(「Point The Finga」)、「Keep Ya Head Up」で感銘を受けた女性を中心とした新たなファン層を獲得した。この曲の中で、彼はこんな表現をしている。
 「なぜ男達は女を奪うのか?なぜ男達は女をレイプするのか?男達は女を憎んでいるのか?」
 最も過激に書き立てたアルバム『Me Against The World』で、トゥパックは成熟した内省的な側面を見せ、彼自身のこうごうしい未来を熟考していた。
 「神はニガー達の為にゲットーを作ったのだろうか?圧迫された自由な生活とドラッグディーラーの溜まり場?」
 このアルバムで、彼は最も有名な曲で、グラミー賞にノミネートされた「Dear Mama」を作り、彼の母親への永遠の愛を強く心に訴えた。
 超人的な努力にもかかわらず、トゥパックはニヒリズムや暴力からの責任を逃れることはできず、彼はそれをラップで表現した。
 彼は、何人かの友人(以前のラップパートナーのケイトー、そしてライヴ・スクワッドのストレッチ)を、彼が殺されたのと同じ手段で失っている。1992年のマリン・シティでのフェスティバルでトラブルが起こり、流れ弾が偶然に6歳の子供を撃ち殺してしまった。トゥパックは、その少年の死が、誰なのかわからない父親の事を考えることと同様に、頭から離れない出来事だったと話した。
 1994年の11月30日、トゥパックは、タイムズスクエアのレコーディングスタジオの外で5発の銃弾を浴びた。彼が(その時の怪我で)まだ車椅子に乗っているとき、1993年の事件で性的虐待の有罪判決を受け、怪我が全快するまでの間刑務所へ送られた。
 彼はニューヨーク州ダネモラで、140万ドルの保釈金で釈放されるまで、9カ月服役した。
 トゥパックは、刑務所の中にいる間に彼に目をつけていたシュグ・ナイトが、シャバに出たらレーベル契約を結ぶと約束していたとインタビューで語っている。1995年10月12日に釈放された後、トゥパックはすぐにデス・ロウ・レコードにサインし、デス・ロウでの彼のファーストアルバムを録音した。
 2枚組CD成功のきっかけになった「California Love」は、ドクター・ドレイがプロデュースした。この年、スヌープ・ドギー・ドッグやデス・ロウのほとんどフルメンバーが参加した『All Eyes On Me』は、250万枚を売上げ、プラチナを獲得した。ポップチャートでもナンバー1になり、トゥパックが死亡したというニュースが流れてからもまた売れ出した。
 殺害されるほんのわずか前に、彼は未公開の映画を2本撮っている。そのうちの1つ『Glidlock'd』では、彼はヘロイン中毒を克服する役を演じ、もう1つの『Gang Related』では、腐敗した刑事役に挑んでいる。
 彼はさらに2枚のアルバムも出す予定で、『The Don Killumminati-The 7 Days Theory』をマキャベリ名義でレコーディングしており、『One Nation』では、ブラック・ムーンのバックショットらを筆頭とした様々なイースト・コーストのMC達と共演していた。

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