銃弾に散った過激な「代弁者」
〜暴力に始まり暴力で終わったトゥパックがかかえていた矛盾〜


 ジェローム・リチャーズ(18)は、仕事をほうり出して病院へ駆けつけた。今月(96年9月)13日、母親からの電話で、トゥパック・シャクールの死を知らされたからだ。
 トゥパックは黒人の若者に人気のラッパー。7日に銃撃され、一週間近く生死の境をさまよっていた。
 黒人の若い男たちは、悲しみを押し殺すことに慣れている。だがこの日、ラスヴェガスの病院前に集まった150人余の若者たちは、トゥパックのラップを大音量でかけながら、悲しみを率直に表現していた。「泣いちゃいけないのはわかってる。でも、本当にトゥパックが大好きだったんだ」とリチャーズは言う。
 病室でも、トゥパックと親しかった若者たちが抱き合って悲しみをこらえていた。
 「仕返しをしなくちゃ」と、一人がつぶやいた。
 「きっと、誰かがやる」
 トゥパック・シャクールの生涯は、あまりにも劇的だった。わずか25年の人生とはとても思えないほどだ。短期間に600万枚以上のアルバムを売りまくったが、その音楽も実生活も暴力抜きには語れない。そしてその死もまた、暴力抜きには語れないのである。
 ここ数年、ラップの歌詞は過激さを増す一方で、詞の内容と現実の境界があいまいになっている。今回の事件は、この危険な傾向を如実に示したものといえる。


2年前にも銃撃事件
 自力で伝説をつくり上げた男の死。若いヒップホップ・ファンは、トゥパックの死をそう考えるかもしれない。だが彼の仕事仲間たちは、最近のトゥパックと一緒に外出するのを嫌っていた。彼自身があまりに暴力的で、あまりに多くの敵をつくり過ぎていたからだ。
 1994年11月、トゥパックはニューヨークのレコーディング・スタジオの外で5発も撃たれている。ライバルのラッパーたちが仕組んだことだと考えたトゥパックは、彼らをいっそう挑発するような行動に出た。作品中に「俺はお前の妻とヤったぞ」という歌詞を挿入したりもした。
 しかし、トゥパックが暴力的になればなるほどレコードの売り上げは伸びた。そして「彼が誰とも口論しないと、病気じゃないかと心配になったほどだ」と、ある友人は言う。
 「この九ヶ月間は、彼の死を知らせる電話が来るのを待っていたようなものだ。殺されるのは時間の問題だったから」という友人もいる(記事の友人は、ほとんどが匿名を希望した)。
 7日の狙撃事件の全容は、まだ明らかにされていない。トゥパックは、彼の所属するデス・ロウ・レコードの経営者シュグ・ナイトに連れられてラスヴェガスにいた。マイク・タイソンの試合を観戦するためだった。
 シュグは、ロサンジェルスのギャング組織と深いつながりがあるとされる。トゥパック同様、多くの敵を持ち、一説によれば、彼を消すために三組の殺し屋が雇われているという。



ターゲットは別にいた?
 トゥパックとシュグの取り巻きは、ボクシングの観戦中にも客といざこざを起こした。そして試合後、シュグの豪邸に立ち寄り、車を連ねてシュグの所有するクラブへと向かった。トゥパックはシュグと一緒の車に乗っていた。
 現場に居合わせた仲間が本誌に語ったところでは、午後11時15分ごろ、助手席側に白いキャデラックが近づいてきた。そして「二人の男が降りてきて、銃を乱射しはじめた。トゥパックは後部座席に逃げ込もうと体を伸ばした。そのせいで、胸にまともに銃弾を浴びてしまった」。
 だが音楽業界の人間に言わせれば、狙撃犯たちの本当の狙いはトゥパックではなく、隣にいたシュグだ。
 「こいつはいつ起きてもおかしくなかった殺し合いの始まりだ」と、ある音楽関係者は言う。
 「シュグをやっつけるには、彼の金づるをやっつければいい。そしてトゥパックは彼の金づるだった」
 ラスヴェガス警察によれば、同市には約5000人のギャングがおり、その多くはロサンジェルスの出身だ。今回の事件に関しては、ギャング団「クリップス」のメンバーの犯行とする説もある。事実、先週にはクリップスのメンバー三人が何者かに銃撃されている。
 わずか四年で売り上げ一億ドルのラップ王国を築き上げたシュグには、早くからきなくさい評判が流れていた。昨年、本誌の取材に応じたとき、彼は黒い噂を否定しつつも、「おかげで誰も、私には手を出さない。ありがたいことだ」と語っている。そして「私は目的のために必要なことをしているだけだ。ほかの連中も、みんなやってる」とうそぶいている。



「2つの自己が闘っている」
 そんなシュグを「誰もが恐れて」いた。そして彼と彼のレーベル「デス・ロウ」は、その「恐れ」を利用し、売り物にしていたトゥパックも、利用されていた。
 黒人解放組織「ブラック・パンサー」のメンバーを母にもつトゥパックは、インタビューで芝居じみた受け答えをし、自分を「シェークスピア劇の主人公」に例えたこともある。
 自分の作品では好んで死に言及していた。「ギャングのように埋葬してくれ」とか、「俺はどれだけ長い間悼んでもらえるのか」といった曲もある。
 友人たちによれば、トゥパックは94年に銃撃を受け、その翌年に性的虐待のかどで投獄されて以来、人が変わったらしい。「あれで目がさめ、生の大切さに気づいたようだ」という。
 その後、いろいろな訴訟費用がかさんで破産。刑務所にいた彼に、負債と100万ドルを超える保釈金を肩代わりしようと申し出たのがシュグだった。トゥパックは契約に応じ、おかげで母に家も買ってやれた。
 だがデス・ロウでの彼は、以前にもまして暴力的なイメージで売るようになった。そして最近のインタビューでは、自分の中で二つの自分が闘っているみたいだ、とも発言している。
 誰にでもかみつく凶暴さと、誰をも受け入れる無防備さ。その両方が彼にはあった。黒人女性に心からの賛辞を送る一方、売春婦を侮辱する詞も作った。殺せ殺せとあおる一方、教育の必要性を説きもした。こうした分裂状態を生きるのは、精神的に相当つらかったはずだ。
 だが、彼がかかえていた分裂は、若い黒人男性の日常そのものなのだ。ラッパーも、犯罪を繰り返す若者も、学生も、みんな似たような分裂をかかえ込んでいる。
 そして彼らの怒りを、トゥパックは命がけのラップで代弁してきた。それがトゥパックの遺産なのである。

アリソン・サミュエルズ、ジョン・リーランド


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